安芸城 2010.05.15その2



説明板。「安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(一三〇八年)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の一人で、戦国時代には土佐七雄の一人といわれた。城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門には桝形の広場もみられる。戦国時代の末、永禄十二年(一五六九)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びた。その後三十年間長曾我部氏が支配したが、慶長六年(一六〇一)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。」

現在美術館、歴史資料館の裏山みたいになっている城山(戦国時代の安芸城)に登る。これは櫓台だろうか?この上に登るとまさに安芸平野が一望できた。

詰めの段の南側の二の段。

詰の段(本丸)。

土塁。

北の二の段。詰めの段の南北に縦長の曲輪がつながっている。

北側の端にはやはり櫓台のようなものが。

詰の段の石積み。

土塁。

詰の段の虎口。

詰の段から南二の段。

石積み。

三の段の石垣。

三の段の石垣。かなり古そう。長宗我部氏の時代に造られたものか五藤氏の時代に造られたものか不明。

角も算木になっていない。

土塁内側の石垣。

土塁。今はその脇はすぐ民家。

土塁から城山。

城を離れ、廓中(かちゅう)の野村家屋敷に。

瓦を重ねて作った塀。

横から。

野村家は上級の家臣であったらしく、部屋も多く、広い。

槍。

長屋門。




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