荒子城 2009.05.03



所在地: 名古屋市中川区荒子4丁目
最寄駅: 名古屋市営地下鉄東山線高畑駅、名古屋臨海高速鉄道あおなみ線荒子駅・南荒子駅
現存遺構: なし
区 分: 平城
城 主: 前田氏
歴 史: 1544(天文13)前田利昌(利家の父)が築城
1575(天正3)利家が越前府中に移る
1581(天正9)利家の子・利長が越前府中に移り廃城


あおなみ線荒子駅前にある前田利家の像。

UP。荒子城は利家が生まれた場所として知られる。

現在は冨士大権現・天満天神宮。というか城内にあったもののうち社のみが残っている。

神社の石碑はあるが城址の石碑はない。

境内には「荒子城跡」の幟がはためく。

説明板。「天文年間(一五三二〜五五)前田利昌の築城と伝えられている。その子利久、同じく利家、利家の子利長が相継いで居城した。天正三年(一五七五)利家が越前国府中(福井県府中市)に、同九年利家も同地に移るにおよび廃城となったとされている。『尾陽雑記』『古城志』などによると、この城は東西約六八m南北約五〇mあり、一重堀を巡らしていたとある。」と。

神社本殿。

利家の生誕を記念した碑。

「前田利家と荒子城」の説明板。「加賀百万石の藩祖、前田利家は一五三七(天文六)年(天文七年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。幼名は犬千代十五歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。二十二歳のとき、十歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ『槍の又左』と呼ばれました。桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍、三十三歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。利家三十九歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。城内には、冨士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。利家が最も信頼した本座者といわれる『荒子衆』はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの『尾張町』が残っています。時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。二〇〇二(平成十四)年NHKの大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』が放映され、利家生誕地『荒子』が広く全国に紹介されました。中川区で結成された『前田利家発信隊』は、利家ゆかりの史跡を結ぶ『犬千代ルート』を作り、ルートのガイドや、まちおこしに積極的に参加、郷土の英雄利家とともに百万石のふるさと『荒子』を全国に発信しました。」




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