| 所在地: | 福岡県福岡市中央区城内 | |
| 最寄駅: | 福岡市営地下鉄大濠公園駅 | |
| 別 名: | 舞鶴城、石城 | |
| 現存遺構: | 曲輪、石垣、土塁、祈念櫓、伝潮見櫓、名島門、旧母里太兵衛邸長屋門、堀 | |
| 再建建物: | 下之橋門 | |
| 区 分: | 平山城 | |
| 城 主: | 黒田氏 | |
| 歴 史: | 1601(慶長6) | 黒田長政が築城開始 |
| 1608(慶長13) | 完成 | |
| 1620(元和6) | 天守取り壊し? | |
| 1871(明治4) | 廃城 | |
| 1875(明治8) | 城跡にあった福岡県庁が天神に移転し第24歩兵聯隊の駐屯地となる | |
| 1947(昭和22) | 兵営・練兵場跡地に陸上競技場建設 | |
| 1949(昭和24) | 兵営・練兵場跡地に平和台野球場建設 | |
| 1956(昭和31) | 伝潮見櫓を現位置に再移築 | |
| 1957(昭和32) | 国の史跡に指定 | |
| 1971(昭和46) | 南二の丸多聞櫓が国の重要文化財に指定 | |
| 1983(昭和58) | 祈念櫓を現位置に再移築 | |
| 1987(昭和62) | 城跡から鴻臚館の遺構が発見 | |
| 2000(平成12) | 下之橋門の一部が焼失 | |
| 2008(平成20) | 下之橋門再建 | |
千代町の崇福寺の山門として移築されている福岡城本丸表門。これは見るからに福岡城だなあ。
UP。
内側から。
普通力士像とか入ってそうなところには櫓門に上る梯子が。
せっかくなので福岡城に。
下之橋門脇の土塀。
伝潮見櫓。
復原された下之橋門。
伝潮見櫓と下之橋門。
説明板。「福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋、下之橋、追廻橋にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、同20年に二層櫓門として復原しました。門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。」
旧福岡城絵図。
燃える前の下之橋大手門。
資料とされた上之橋大手門(現存せず)古写真。
伝潮見櫓と下之橋門。
下之橋門。
伝潮見櫓。
旧母里太兵衛邸長屋門。
説明板。「筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。黒田長政が筑前入国後、六つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長二十年(一六一五)六月六日病没した。現在の天神二丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和三十一年に県の文化財に指定され、同四十年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。」つまりこの門にしろ名島門にしろ伝潮見櫓にしろ、保存のために城跡に移築されただけで場所はあんまり考慮されてないようだ。
門扉。
二ノ丸石垣。
今日は本丸・二の丸には入らず城の北側の堀跡を回る。
ゆりかもめ?
上之橋門の土塀。
上之橋門。
上之橋門跡。
内側から。
桝形。
ちょっと角度変えて。
上之橋。