姫路城 2005.4.3



所在地: 兵庫県姫路市本町
最寄駅: JR山陽新幹線・山陽本線姫路駅、山陽電鉄山陽姫路駅
別 名: 白鷺城
現存遺構: 大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、いの渡櫓、ろの渡櫓、はの渡櫓、にの渡櫓、台所、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓、ホの櫓、ヘの渡櫓、トの櫓、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓、ヌの櫓、ルの櫓、ヲの櫓、ワの櫓、カの櫓、カの渡櫓、ヨの渡櫓、タの渡櫓、レの渡櫓、折廻櫓、井郭櫓、帯の櫓、帯郭櫓、太鼓櫓、ニの櫓、ロの櫓、化粧櫓、菱の門、いの門、ろの門、はの門、にの門、への門、との一門、との二門、との四門、ちの門、りの門、ぬの門、るの門、水の一門、水の二門、水の三門、水の四門、水の五門、水の六門、備前門、土塀(詳細省略)、曲輪、石垣、土塁、堀
再建建物: 大手門(桐二ノ門)
区 分: 平山城
城 主: 黒田氏、羽柴氏、木下氏、池田氏、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏
歴 史: 1561(永禄4) 黒田重隆・職隆父子が大改修
1580(天正8)職隆の子・孝高(官兵衛)が秀吉に姫路城献上
1583(天正11)秀吉が大坂城に移り姫路城には秀長が入る
1585(天正13)秀長が大和郡山に転封、親族の木下家定が入城
1601(慶長5)家定が備中足守に転封、池田輝政が入封し姫路藩成立
1608(慶長13) 輝政が連立天守を築く
1617(元和3)池田氏3代光政が幼少を理由に鳥取転封、代わって本多忠政が入封
1618(元和4)千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備される
1639(寛永11)本多氏3代政勝(忠政の甥)大和郡山転封、代わって松平(奥平)忠明が入封
1648(慶安元)忠明の子・忠弘が幼少を理由に山形転封、代わって松平(越前)直基が入封
1649(慶安2)直基が亡くなるとその子・直矩が幼少を理由に越後村上転封、榊原忠次が入封
1667(寛文7)忠次の子・政房が亡くなるとその子・政倫が幼少を理由に越後村上転封、松平(越前)直矩が再び藩主に
1682(天和2)直矩が越後騒動に連座して日田に国替え、本多忠国入封
1704(宝永元)忠国が亡くなるとその子・忠孝が幼少を理由に越後村上転封、榊原政邦が入封
1741(寛保元)榊原氏4代政永が高田に転封、松平(越前)明矩が入封
1749(寛延2)明矩が亡くなるとその子・朝矩が幼少を理由に前橋転封、代わって酒井忠恭が入封、以降10代酒井氏の居城
1868(慶応4)北風正造の寄付により官軍の攻撃を回避、開城
1871(明治4)廃城、払い下げ
1873(明治6) 三の丸の建物取り壊し
1879(明治12) 個人所有のまま放置されていたが中村重遠陸軍大佐の尽力で保存が決定
1882(明治15)失火により備前丸焼失
1910(明治43)「明治の大修理」開始
1928(昭和3)国史跡に指定
1931(昭和6) 国宝保存法により大天守他82棟が国宝指定
1938(昭和13) 大手門(桐二ノ門)復元
1951(昭和26) 文化財保護法により改めて大天守、東・西・乾の小天守、い・ろ・は・にの渡櫓の8棟が国宝、残り74棟(化粧櫓、二の櫓、菱の門、い・ろ・は・にの各門他)が重要文化財に指定
1956(昭和31) 特別史跡に指定、「昭和の大改修」開始(〜1964)
1993(平成5)世界遺産登録


今回は中濠に沿って中曲輪(武家屋敷のあったエリア)を一周する(一部ショートカット)ことに決定。まずは中之門跡から姫路駅を背に国道2号線を右に総社門方向へ。延々と続く土塁。

総社門跡石垣。

反対側の現存高石垣。ここからは中濠沿いではなく総社門から入る形で中曲輪を横断。つまり鳥居先門跡は行かず。

血の池ってなんだ?

城見台。ここからまた右に折れて中濠へと向かう。

東部中濠到達。

内京口門跡。中は賢明女子学院。

中曲輪の南東の隅に当たる。

中濠に沿って北上。

鯉多すぎ。

久長門跡。

久長門跡から天守。

さらに濠に沿って歩く。このあたりは濠の脇に側道が整備されているので歩いて行ける。

久長門跡(北側から)。

この鯉はデカかった。推定体長1.5m。

途中で側道が切れていたため、ぐるっと回りこんで野里門跡に。平成4年に整備された東部中濠はここまで。

野里門跡。

濠はつながっていない。

野里門跡土塁から見た天守。

北部中濠に沿って進む。カモ。

北西の隅。桜はまだ咲いておらず。

ドバト。

清水門跡。

清水門井戸。

清水門から西の丸。

清水門から天守。

遠景。

ここは中曲輪と内曲輪が隣接している。これは内曲輪の北勢隠門。

内濠。

内濠のカモ。




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