亀丘城 2009.05.10



所在地: 長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触
別 名: 亀尾の館、亀尾城
現存遺構: 石垣、土塁、曲輪
区 分: 山城
城 主: 波多氏、日高氏、松浦氏
歴 史: 1294(永仁2)岸嶽城主・波多宗無が築城
1472(文明4)波多氏12代・泰が亀丘城を本拠に壱岐を統一
1565(永禄8)波多氏の重臣・日高喜(このむ)が亀丘城を奪い壱岐を領有
1571(元亀2)日高氏が宗氏の侵略に対し松浦氏に臣従、以降松浦氏が城代を置く
1873(明治6)廃城


郷ノ浦港から登った高台、市役所の裏に亀丘城跡。「亀丘」と書いて「かめのお」と読むらしい。建ってる像は元寇を予言したことで知られる日蓮上人。

説明板。「亀丘城(別名、亀尾城)は、鎌倉後期の永仁二年(一二九四)、肥前国上松浦波多郷(現、佐賀県唐津市北波多)の岸岳(岸嶽)城主・波多宗無が築城したと伝えられる山城である。波多氏は中世、松浦郡地方に割拠した武士団、松浦党の一員である。松浦党の祖は、延久元年(一〇六九)に摂津国渡辺荘から松浦郡宇野の御厨検校ならびに検非違使に補任されて下向土着した源久で、久は松浦氏を名乗り一族に松浦の各地を分封して独立させ、勢力の拡張を図った。一方、波多氏の祖は源持である。持は久の次男で、波多郷を与えられて波多氏を名乗った。以後、文禄二年(一五九三)、波多三河守親まで十五代(十六代とも)に及んで断絶した。亀丘城を創建した宗無(法名)については不明であるが、第三代の波多勇か第四代の明と思われる。定かにする史料はないものの、波多氏は元寇直後の壱岐に進出して、支配の根拠地とすべくここ武生水村一帯を領分としたものであろう。波多氏が壱岐島全島を掌中に収めたのは文明四年(一四七二)十一月で、第十二代下野守泰は、松浦党の志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留の五氏が分治する壱岐を急襲して領有することとなる。そして亀丘城を修築して入り、一族を留めて統治する。第十三代は下野守興、第十四代は壱岐守盛だが、盛は嗣子のないまま天文十一年(一五四二)に歿した。この後、後継者を巡る内紛が生じ、永禄七年(一五六四)には重臣日高甲斐守喜の謀反に発展し、波多氏は日高氏によって岸岳城を追われることとなる。しかし、龍蔵寺・有馬両氏の助勢を得て奪回し、敗れた日高氏は壱岐に逃れて亀丘城を奪い、壱岐を押領した。永禄十一年(一五六八)、日高氏は龍蔵寺氏・波多氏に対抗するため平戸の松浦氏と誼を結ぶが、元亀二年(一五七一)には松浦氏に従属することとなる。以後、壱岐は松浦氏(平戸藩)の領地となり、松浦藩は明治までの約三百年間、亀丘城に城代と郡代を派遣して統治した。城郭の遺構は中世以降の長きに渡るため旧態を損しており、北面に一部石垣を残すのみであるが、典型的な山城としてその規模はよく整ったものであったといわれている。郷ノ浦港を眼下に一望する亀丘城は、永仁の築城から明治に至るまで、壱岐の軍事・政治の中枢をなした城の一つであった。文久元年(一八六一)の『壹岐名勝図誌』には当城の規模を、『本丸 東西十五間(約二七メートル)、南北十二間(約二二メートル)、二の丸よりの高さ凡そ五間(約九メートル)程、二の丸(現在地)東西三十六間(約六五メートル)、南北十七間余(約三一メートル)。三の丸 東西五十六間(約一〇二メートル)、南北廿二間(約四〇メートル)或いは十四間(約二五メートル)』と記し、城名は二の丸にあった亀石と呼ぶ名石にちなんで名付けたと伝える。」

亀丘城跡の碑。

土塁。

曲輪。奥に土塁。

土塁。

曲輪。何の碑かは見てない。

突き出した曲輪。

土塁に石積み。

同じく。

切り通し?空堀?

北の一面にのみ石垣が残っている。コンクリートで固められたものだが。

石垣。

石垣。

その前にはちょっとした公園が。置いてある石は石垣のものだろうか?

南面は切岸になっている。

突き出した部分を市役所駐車場(二の丸跡)から。




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