小幡城 2009.05.26



所在地: 茨城県東茨城郡茨城町大字小幡字城ノ内
最寄駅: JR常磐線石岡駅または水戸駅からバス
現存遺構: 曲輪、空堀、土塁
区 分: 平城
城 主: 大掾氏、江戸氏、佐竹氏
歴 史: 1420(応永27)大掾義幹が築城(1220年小田光重築城説あり)
1532(天文元)江戸忠通に攻められ落城
1590(天正18)佐竹義宣に攻められ落城
1602(慶長7)佐竹氏秋田に移封、廃城


石岡駅から奥の谷経由水戸行きのバスに乗り約30分、新小幡で下車。ラブホテル密集地帯や畑の間を抜けると「小幡城跡」の看板。さらに畑の中を歩く。

途中に迂回路予告の看板。東関東自動車道建設工事のため来月からはぐるーっと迂回しないと新小幡の方からは小幡城には行けなくなるようだ。

迂回路図UP。

ようやく大手口跡に。

史跡指定の標柱。

土塁がわずかに残っている。

内側から。

史跡指定された内側に東関東道が建設中。外郭部分とはいえこの配慮のなさはひどい。

すでに多少迂回するようになってる道を歩き、バス停からは20分で小幡城に到着。北東の鬼門除けに設置された香取神社。来月以降の迂回路はこのへんにつながるようだ。

小幡城の堀底道に入る。これだけ高い土塁と、それに囲まれた堀底道が残っている。思わず「すごい」と声が出る。

説明板。「小幡城は大掾詮幹の三男義幹が室町時代(一四二〇年ごろ)に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代(一二二〇年ごろ)に築いたという二説がある。戦国時代の文明年間(一四八一年ごろ)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。現在の城域約十二ヘクタールが整備されたのは、元亀〜天正年間(一五七〇年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。安土・桃山時代の天正十三年(一五八五年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫二郎の名が見える。このころ城の守りを強化するため、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。天正十八年(一五九〇年)十二月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により水戸城の江戸氏は城をうばわれ、府中市の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。その後小幡は佐竹氏の秋田移封(慶長七年、一六〇二年)まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。小幡城は天正十八年の落城、あるいは佐竹氏の移封の時に、数百年にわたる歴史的役割を終えたと考えられる。」

縄張図UP。

堀底道の入口。

物凄い空堀。

これは通行用に後年作られた切通しらしい。

逆側から。

もうひとつの入口。

なのだがそこには民家らしき建物が。

戻る。ちょっと斜面になった空堀を下から。

土塁が交錯して堀はジグザグに。

二の郭(特に伝承がないので郭の名は定まっていない)に。

二の郭と三の郭の間の空堀。




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