御土居 2010.06.12その2
北区旧土居町(鷹ヶ峯)の土塁は近づけず。
同じく旧土居町。こちらは公園化されているがそれだけ低くなっている感じ。
説明板。これもまた他のとは文面が違う。「京都の御土居は天正19年(1591)豊臣秀吉が多数の人びとを動員して築いたものである。これより先戦国乱世の時代に京都では『町の構』や『ちゃうのかこい』を築いて町を自衛する体勢がとられた。また堺や山科、石山をはじめ各地の寺内町などの都市や村落でも環濠城塞化する動きがみられ、こうした動きをうけて『御土居』は築かれたが、住民が自衛するための施設ではなかった。天下一統をとげた秀吉はながい戦乱で荒れはてた京都を復興し、その途後城下町化をはかったのである。まず聚楽第を設け、これを中心に街区を改め、寺院を寺町と寺の内に集めた。そして、まわりに濠と土塁をめぐらし洛中と洛外を分ち『御土居』に七口を設けて洛外との交通をここに限ろうとした。秀吉は『刀狩り』の政策に示されるように、民衆の自衛権を否定し、都市を支配し、その権力を示すために御土居を築いた。この延長実に23キロにもおよぶ『御土居』は平安京以来はじめて京都に完成した羅城であった。しかし外敵の脅威もなく、天下太平の近世にあって、この『御土居』はしだいに無用のものとなった。江戸中期になると『御土居』をこえて東へと市街は広がった。しかし、みずから労力を費やして構築した長大な『御土居』を人びとは忘れはしなかった。『御土居』は洪水を防ぐ堤防の役割をはたしたし、近辺の農民は土崩れの防止や竹木の成育など、その保全に力をつくしたのである。やがて近代になると、開発によって南辺から西辺にかけて大きくこわされ、わずかに北辺や西辺の一部に往時のおもかげをとどめているにすぎない。(以下略)」
土塁上。
逆側(南側)。
土塁。
北区紫野西土居町の土塁。
民家の前にちょこっとだけ残ってる。
西土居町の堀の跡(天神川)。
天神川。
北区平野鳥居前町の土塁。
結構ここも大規模に残っている。基底部は改変されているっぽいが仕方ない。
石柱。
説明板。
逆側から。
北野天満宮境内の土塁跡。
説明板。「御土居とは豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた今日の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正十九(一五九一年)に築いた土塁のことです。そのほとんどが江戸時代に取り壊され、現存するのは北野天満宮の境内ほか数箇所となっており、昭和四年十月二十七日に都市計画の重要な遺構として『史跡』の指定を受けています。」
この石垣も後世のものだろうなあ。
天神川。
最後、中京区西ノ京原町。史跡の標柱はあるが・・・。
神社の奥は荒れ放題。
土塁だったと見えなくもないが・・・。最後がこんなオチとは。あと1か所残っているという北野中学校も入れなかったのでこれでおしまい。
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