| 所在地: | 鹿児島県志布志市志布志町帖 | |
| 最寄駅: | 日南線志布志駅 | |
| 現存遺構: | 曲輪、空堀 | |
| 再建建物: | なし | |
| 区 分: | 山城 | |
| 城 主: | 救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、豊州島津氏、肝付氏、島津氏 | |
| 歴 史: | 年代不明 | 築城 |
| 1189(文治5) | 志布志が救仁院氏の領地に | |
| 1348(正平3) | 楡井頼仲が志布志松尾城の城主に | |
| 1357(延文2) | 畠山氏が松尾城を攻め楡井氏滅亡 | |
| 1365(貞治4) | 島津氏久が日向守護畠山直頭を追放して志布志城に入る、以降新納氏が200年志布志を治める | |
| 1536(天文5) | 新納忠勝が島津氏内の勢力争いにより豊州島津氏・北郷氏・肝付氏に攻められ志布志を去り、代わって豊州島津氏が入る | |
| 1562(永禄5) | 肝付兼続が志布志城を攻略 | |
| 1564(永禄7) | 肝付兼続が志布志城を隠居所とする | |
| 1577(天正5) | 肝付氏が島津氏に降伏、志布志は島津氏の直轄地となり、初代地頭として鎌田政近が任命される | |
| 1615(元和元) | 廃城 | |
志布志麓総合案内板。志布志城の四つの城(内城、松尾城、高城、新城)の位置関係がわかる。
島津の麓(外城=とじょう)。喜入旧麓(1650年に移転)、出水麓、入来麓、里麓(甑島)、手打麓(甑島)、串木野麓、蒲生麓、知覧麓、加世田麓、垂水麓、志布志麓。
麓の説明。「江戸時代、薩摩藩は、外敵からの攻撃に備え、本城である鹿児島城を中心とし、県内各地に外城(とじょう)を配置し、武士団を住まわせていました。これは外城制度(とじょうせいど)と呼ばれ、薩摩藩独自の体制でした。現在、鹿児島市の鹿児島城跡を中心に、外城の中心地である麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群が、県内各地に数多く残されています。麓は、防御に適した場所に作られ、門と玄関の間に生垣を配置する等、まるで城のような構造を持っていました。そこでは武士等が心身を鍛え、農耕に従事し、平和な世でありながら武芸の鍛錬に励みました。本城の鹿児島城跡や外城の武家屋敷群を歩けば、薩摩の武士達の往時の生き様が見えてきます。」
志布志城の説明板。「志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基によって開かれた日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)として発達した。志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり、この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、建武3年(室町時代 1336年)で、「志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた」という記録が残っている。志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、肝付氏−楡井氏ー新納氏ー豊州家島津氏ー肝付氏−島津氏の流れとなる。その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり現在に至っている。志布志城の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。志布志にこのような広大な山城が作られたのは、この地が海上交通の要所であり、国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。」
志布志城(内城)跡入口。ここから右に折れて内城に。
入口(ここから左に)。
野生のフジが席捲。
内城の説明板。
散策コースマップ。
大手口へと進む。この辺は舗装されている。脇に民家もあるが、廃屋っぽかった。
山城っぽくなってきた。
矢倉場に。
曲輪1(矢倉場)説明板。
矢倉場。
横から見ると切り立った崖。
搦手口。今回は行かず。
曲輪3(本丸)下段
曲輪3(本丸)下段の説明板。
上段に。
本丸上段。
土塁。
新納氏の守護神・三宝荒神の祠。
志布志城内城跡本丸 島津氏六代氏久公居城の標柱。「島津氏の六代当主、島津氏久は志布志城に居城し城主の新納氏を率いて日向・大隅を治めた。」と書いてある。
本丸土塁。
大堀切。
縦の空堀を歩いて大野久尾に。
右手には木が生い茂る。
空堀。
マムシグサが群生していた。
大空堀。
大空堀。
大野久尾に。
大野久尾。
大野久尾。近年まで茶畑だったそうで、現状も原っぱ。
空堀を歩いて中野久尾に戻る。
中野久尾。
土塁も残っている。
堀切。
内城から松尾城に。
「入口」とあるが、その先に道はなし。高城・新城は入口すらわからず。
地頭仮屋跡の説明板。
この石垣は現存のものだろうか?