志布志城 2025.04.13



所在地: 鹿児島県志布志市志布志町帖
最寄駅: 日南線志布志駅
現存遺構: 曲輪、空堀
再建建物: なし
区 分: 山城
城 主: 救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、豊州島津氏、肝付氏、島津氏
歴 史: 年代不明築城
1189(文治5)志布志が救仁院氏の領地に
1348(正平3)楡井頼仲が志布志松尾城の城主に
1357(延文2)畠山氏が松尾城を攻め楡井氏滅亡
1365(貞治4)島津氏久が日向守護畠山直頭を追放して志布志城に入る、以降新納氏が200年志布志を治める
1536(天文5)新納忠勝が島津氏内の勢力争いにより豊州島津氏・北郷氏・肝付氏に攻められ志布志を去り、代わって豊州島津氏が入る
1562(永禄5)肝付兼続が志布志城を攻略
1564(永禄7)肝付兼続が志布志城を隠居所とする
1577(天正5)肝付氏が島津氏に降伏、志布志は島津氏の直轄地となり、初代地頭として鎌田政近が任命される
1615(元和元)廃城


志布志麓総合案内板。志布志城の四つの城(内城、松尾城、高城、新城)の位置関係がわかる。

島津の麓(外城=とじょう)。喜入旧麓(1650年に移転)、出水麓、入来麓、里麓(甑島)、手打麓(甑島)、串木野麓、蒲生麓、知覧麓、加世田麓、垂水麓、志布志麓。

麓の説明。「江戸時代、薩摩藩は、外敵からの攻撃に備え、本城である鹿児島城を中心とし、県内各地に外城(とじょう)を配置し、武士団を住まわせていました。これは外城制度(とじょうせいど)と呼ばれ、薩摩藩独自の体制でした。現在、鹿児島市の鹿児島城跡を中心に、外城の中心地である麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群が、県内各地に数多く残されています。麓は、防御に適した場所に作られ、門と玄関の間に生垣を配置する等、まるで城のような構造を持っていました。そこでは武士等が心身を鍛え、農耕に従事し、平和な世でありながら武芸の鍛錬に励みました。本城の鹿児島城跡や外城の武家屋敷群を歩けば、薩摩の武士達の往時の生き様が見えてきます。」

志布志城の説明板。「志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基によって開かれた日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)として発達した。志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり、この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、建武3年(室町時代 1336年)で、「志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた」という記録が残っている。志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、肝付氏−楡井氏ー新納氏ー豊州家島津氏ー肝付氏−島津氏の流れとなる。その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり現在に至っている。志布志城の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。志布志にこのような広大な山城が作られたのは、この地が海上交通の要所であり、国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。」

志布志城(内城)跡入口。ここから右に折れて内城に。

入口(ここから左に)。

野生のフジが席捲。

内城の説明板。
城の変遷
 内城は志布志城(内城・松尾城・高城・新城の総称)の主体部であり、肝付氏の没落による天正5年(1577)の島津氏初代地頭、鎌田出雲守政近まで、およそ400年の豪族の攻防の歴史を繰り返している。
築城の歴史
 志布志城の最初の築城年代はわからない。南北朝期までは、本丸と矢倉場といわれる曲輪のみであり、新納氏の時代に中野久尾・大野久尾と拡大し、内城本丸の山下に居館を置いた。戦国期に現在見られるような直線連郭型式の山城となり常に当地方の支配者の居城であったが、徳川幕府の一国一城制によって廃城となり今日に至っている。
立地と環境
 内城は北東から南西に伸びた細長い丘陵の先端部に立地しており、北東部のみ台地に繋がっているので、ここに深い堀切を設け、台地と丘陵とを切り離している。そして細長い丘陵に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は空堀によって区切られている。
構成と性格
 志布志城には志布志五口と称して大手口・西谷口・沢目記口・小渕口・向川原口の5つの入り口があるが、この他に留城戸一つがある。
 空堀は、丘陵を横断する5つの大きなものと、これに直角に交わり丘陵と並行して長く続く2つとから成っている。
 曲輪は、深堀で仕切った上、さらに浅堀で2つに分割し、浅堀の中央付近で両側の曲輪の虎口に繋がるというのが基本である。本丸(曲輪3)の土塁は大きく、北の隅は大きく張り出し、高さ4メートルの櫓台となっている。中野久尾の両曲輪とも二段で、曲輪5(A)の虎口は中仕切りの堀底から登り、同(B)は四面とも土塁で囲まれていて南西のみ空き、坂虎口となっており、これを守る土塁が張り出している。ここが当城で最も手が込んでいる。大野久尾の曲輪は農道で中仕切りの空堀が埋没している。
現況
 中世の新納氏200年間の居城の守護神である三宝荒神が本丸跡に、また、新納家始祖新納時久公の墓矢倉場の旧新納家墓地跡に残っている。
 この内城は、空堀の規模が大きく縄張りも明快で、港・河口・街道に望んで望遠観察にも適している。
 また、中世城下町の存在も予想されており、伝承にも恵まれた、南九州でも有数の山城である。

散策コースマップ。

大手口へと進む。この辺は舗装されている。脇に民家もあるが、廃屋っぽかった。

山城っぽくなってきた。

矢倉場に。

曲輪1(矢倉場)説明板。
 内城は志布志城を構成する4つの山城(内城・松尾城・高城・新城)の中で、中心的な役割を果たしたと考えられている。曲輪1は内城の中心部を構成する曲輪であり、矢倉場と呼ばれている。
 矢倉とは、弓矢を収める倉庫のことであり、同時に防御のための施設をも指す用語である。このことから、矢倉場と呼ばれるこの曲輪には、防御のための建物施設が存在したと推測されている。
 この曲輪には「新納時久の墓」として、城主であった新納時久の供養塔が明治時代に建立されている。
 2004年度に実施した確認調査によって、この曲輪が東西で上下段に分かれた高低差3.5mの構造であったことが確認された。2009・2010年度に実施した発掘調査によって、この曲輪からは多数の柱穴や土坑、溝跡などが検出された。柱穴には、中に柱を支えるための石を備えたものがあり、上下2か所に石を有し、2時期にわたって使用されたと考えられるものもある。方形土坑とよばれている、ほぼ垂直に掘り込まれた長方形の土坑は、トイレとして利用された可能性が考えられる。
 この曲輪から中国産の磁器、備前や瀬戸の陶器、土師器などが出土し、その主な年代は14〜16世紀である。また、約4000年前の縄文土器も出土し、山城の築城以前から遺跡が存在する場所であったことをうかがわせる。

矢倉場。

横から見ると切り立った崖。

搦手口。今回は行かず。

曲輪3(本丸)下段

曲輪3(本丸)下段の説明板。
 内城は志布志城を構成する4つの山城(内城・松尾城・高城・新城)の中で、中心的な役割を果たしたと考えられている。内城の中心となる部分を地元では本丸と呼んでる。
 曲輪が上下段に分かれていることから、それぞれが本丸上段、本丸下段と呼ばれている。
 2006年度から2008年度にかけて実施された発掘調査によって、本丸下段からは柱穴や土坑、遺跡、堀、火を使った跡などが検出され、碗や皿、壺、甕などの陶磁器や土師器、釘や金具などの金属製品、銅銭やガラス製品の破片、鉄滓が出土した。
 出土した陶磁器は14〜16世紀のものが中心で、備前焼などの国産陶器のほか中国や東南アジアの製品がある。また、京都周辺で出土する土師器などもあり、国内外の様々な地域の遺物が出土することは志布志の港を通じた交易をうかがわせる。
 検出された柱穴から、少なくとも2棟以上の建物が存在していたことが推測され、一方で建物よりも土坑の数が多く、製鉄や鍛冶の際に出る鉄滓が多く出土していることから、居住地としての使用と工房のような作業場としての使用が推測される。

上段に。

本丸上段。

土塁。

新納氏の守護神・三宝荒神の祠。

志布志城内城跡本丸 島津氏六代氏久公居城の標柱。「島津氏の六代当主、島津氏久は志布志城に居城し城主の新納氏を率いて日向・大隅を治めた。」と書いてある。

本丸土塁。

大堀切。

縦の空堀を歩いて大野久尾に。

右手には木が生い茂る。

空堀。

マムシグサが群生していた。

大空堀。

大空堀。

大野久尾に。

大野久尾。

大野久尾。近年まで茶畑だったそうで、現状も原っぱ。

空堀を歩いて中野久尾に戻る。

中野久尾。

土塁も残っている。

堀切。

内城から松尾城に。

「入口」とあるが、その先に道はなし。高城・新城は入口すらわからず。

地頭仮屋跡の説明板。
「地頭仮屋跡」は中世以降の志布志城跡の重要な拠点としての足跡を遺すものであり、「地頭仮屋跡」の台地を囲み現存する石垣は、「地頭仮屋跡」の名残のある極めて重要な価値を有するものである。現在石垣は、西側の石垣が三段若しくは二段で形成されているが、明治30年頃の古写真では、石垣の構造は一段であることが確認でき、東側の石垣が往古の状態を遺し現存している。
 さらに「地頭仮屋跡」は、国指定史跡「志布志城跡」の中でも最大規模をもつ「内城」の南側に位置し、現在その「地頭仮屋跡」には志布志小学校の上校舎と下校舎が建てられている。
 この「地頭仮屋跡」には、島津宗家6代島津氏久、7代元久及び新納家累代の居館跡があり、藩政期においては志布志郷を執務する拠点施設としての地頭所が置かれていた。この地頭所は明治初期の学制発布以降、明治5年(1872年)4月に、旧大慈寺書院を移転して「志布志郷校」として開校して以来、小学校教育の現場として使用され、現在に至っている。
 現在する石垣のみならず、志布志小学校の上校舎と下校舎の範囲を含めた一帯が中世以降の志布志城・志布志郷の重要な拠点であり、その歴史的価値は十分高いものである。

この石垣は現存のものだろうか?

志布志市埋蔵文化センターに展示してある内城の復元模型。




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