会津若松城 2005.1.3



所在地: 福島県会津若松市追手町
最寄駅: JR磐越西線・会津鉄道西若松駅
別 名: 鶴ヶ城、若松城、黒川城
現存遺構: 曲輪、石垣、堀、御三階(移築)
再建建物: 天守、南走長屋、干飯櫓
区 分: 平山城
城 主: 葦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(松平氏)
歴 史: 1384(至徳元) 葦名直盛が東黒川館築城
16世紀半ば蘆名盛氏が東黒川館を改修して黒川城を築城
1589(天正17) 伊達政宗が蘆名義弘に勝利し黒川城に入る
1590(天正18) 秀吉の奥州仕置により会津には蒲生氏郷が入る
1593(文禄2) 氏郷が黒川城を改築、七層の天守を築き鶴ヶ城と命名
1598(慶長3)氏郷の子・秀行が減封され宇都宮に、代わって上杉景勝が越後から120万石で会津入封
1601(慶長6)上杉景勝が西軍に与したとして米沢に転封、蒲生秀行が再び入城
1611(慶長16) 地震により天守損傷
1627(寛永4)蒲生家が無嗣のため伊予松山に減転封、入れ替わりで加藤嘉明が入封
1639(寛永16) 嘉明の子・明成が天守を五層に改修、西出丸、北出丸増築
1643(寛永20)明成が会津騒動で改易、保科正之入封
1696(元禄9)保科氏3代正容の時幕府の命により松平氏を名乗る、以降明治まで松平氏が城主
1868(慶応4)戊辰戦争敗戦、鶴ヶ城開城
1873(明治6)廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)で存城が決定
1875(明治8)修理・維持費を地元が賄えないため陸軍省に申し出て建造物取り壊し
1900(明治23)城域が旧藩主・松平家に払い下げ
1927(昭和2)松平家から若松市に譲渡
1934(昭和9)国史跡に指定
1965(昭和40) 天守を鉄筋コンクリートで外観復元
1991(平成3) 外郭遺構が国史跡に追加指定
2001(平成13) 南走長屋、干飯櫓木造復元


雪が積もって、かつ空は青空というタイミングを待って鶴ヶ城に。到着は9時50分。本丸から駅の方向に突き出した北出丸の西北角櫓跡石垣。

同じく東北角櫓跡。

大手門から入城。

雪の積もった雁木。

大手門跡桝形。

太鼓門跡から天守。

朝の時間帯はこちらは日陰。

武者走り。

本丸埋門(蒲生時代の表門)跡。

埋門から天守。

本丸・入場券売り場前から天守。

縦で。いい感じに屋根に雪が積もってる。昼からだと融けてただろうなあ。

接近。

本丸跡庭園。

横から。

斜め前から。

走長屋と天守。

天守UP。

縦で。

ちょっと引いて。

干飯櫓。

南走長屋、鉄門と天守。

鉄門と天守。

月見櫓跡から天守。

月見櫓跡石垣。

茶壷櫓跡から天守。

茶壷櫓跡石垣。

茶壷櫓跡から廊下橋。

廊下橋UP。

廊下橋を上から。

走長屋跡から天守。

走長屋跡石垣。

戊辰戦争後に天皇に対する反逆罪を問われた会津藩、藩主松平容保は明治天皇によって許されたが、誰かが責任を取るべきということで三人の家老が「逆賊」の汚名を着ることになったが、うち2人は戊辰戦争で負傷・自刃していたため結局萱野権兵衛ひとりが責任を取る形で切腹した、ということが書いてあった。




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