蕨城 2009.06.12



所在地: 埼玉県蕨市中央4丁目
最寄駅: JR京浜東北線蕨駅
現存遺構: 堀跡
区 分: 平城
城 主: 渋川氏
歴 史: 1366年頃(貞治年間)渋川義行が築城
1524(大永4)北条氏により落城、廃城
江戸時代初め徳川家康が城址に御殿を置く


蕨駅から歩いて20分ほどで蕨城址公園。

説明板。「蕨城址は貞治年中(1366年頃)将軍足利氏の一族武蔵国司渋川義行が城を構えのちその一族が知行する。室町時代の末戦乱の続く関東平定のため長禄元年(1457年)将軍義政は近親で九州探題という重い家柄の渋川義鏡を関東探題として下向させた。義鏡は義行の蕨城に拠り関東諸将に将軍の令をつたえ鎌倉におもむき管領を援ける。その後義鏡の子息義堯その子義基が居城する。徳川時代の初め家康は宿駅制度の拡充と参勤交代の制施行まで城址に御殿を置く。蕨城址は南北に帯状に連なる自然堤防の中央部を占め江戸上期の絵図面によれば幅六間半の堀と幅四間半の土塁をめぐらせ堀内1町2反3畝余坪これに接して南方に堀と土塁をめぐらせた2町1反8畝8坪の外輪地がある。北方に続き梯子形に堀と土塁の構えが見られ復元すれば同心円的複郭平地方形館城といわれる。いまわずかに堀跡と御所跡枡形、要害、館、堀内、矢防敷、のろし台、防止などの俗名を残すだけである。昭和36年11月本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の蕨城址の碑が全市民賛同により建てられ同49年市制15周年記念事業として土塁の一部を復元し、城址公園と市民会館を建設する。」

池。

堀跡につながっている。

「御殿堀」と呼ばれる。

本丸の説明板。「蕨城は南北朝時代に渋川氏が居を構え、大永4年(1524年)に北条氏綱により攻撃され、破壊されたと言われています。江戸時代になると、徳川家康が城跡に御殿を置きました。蕨城の遺構はわずかに堀跡が残っているだけですが、江戸時代の絵図面によれば東西が沼、深田で囲まれた帯状の微高地上に、幅六間半(約11.8m)の堀と幅四間半(約8.2m)の土塁をめぐらし、堀の内側の面積は1町2反3畝余坪(約12200u)でした。また、南側に堀と土塁をめぐらせた2町1反8畝8坪(約21650u)の外輪地があり、北側にも堀と土塁の構えが見られます。いまはわずかに堀跡と御所跡枡形、要害、館、堀内、矢防敷、のろし台、防止などの俗名を残すだけです。昭和36年11月本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の『蕨城址碑』が建てられ、昭和49年市制15周年記念事業として土塁の一部を復元し、城址公園と市民会館を建設されました。」さっきのとは微妙に違う。

その蕨城址碑。

城址公園中心部。

土塁。先ほどの説明板によれば復元されたものということか。

土塁。

一部は和楽備神社。




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