柳川城 2009.12.12



所在地: 福岡県柳川市本城町
最寄駅: 西鉄大牟田線西鉄柳川駅
別 名: 舞鶴城、柳河城
現存遺構: 石垣、堀
区 分: 平城
城 主: 蒲池氏、鍋島氏、龍造寺氏、立花氏、田中氏
歴 史: 1558〜1569
(永禄年間)
蒲池鑑盛が築城
1581(天正9)蒲池氏滅亡、鍋島信昌が入城
1584(天正12)信昌(信生)が佐賀城に移り龍造寺家晴が入る
1587(天正15)秀吉の九州仕置により立花宗茂(統虎)入封
1600(慶長5)宗茂が関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易、田中吉政入封
1620(元和6)田中氏断絶、宗茂が棚倉より再び入封
1872(明治5)失火により天守等焼失
1873(明治6)廃城
1874(明治7)石垣が海岸堤防の補強に転用される
1947(昭和22)跡地に柳城中学校創立


柳川城水門。

「お花」にある天守模型。

横から。

「お花」にある天守礎石。

柳城中へ。柳川城本丸跡。学校自体は本丸西側の堀跡に建てられたという話。

石垣跡。

堀跡。ほとんど残ってないに等しい・・・。

ここが西北端だそうだ。

東側にはもう少し石垣が残っていた。腰巻土塁なのではなく、石垣が崩された跡のようだ。

石垣。

刻印も。

もうひとつ。

すっかり低くなってる石垣。

石垣。

やはり腰巻土塁に見える石垣跡。

柳川城跡の碑。

古い説明板。読めない。

土塁。

中学校敷地は基本無断立入禁止だが、ここは登れるようになっている。天守曲輪跡?

礎石?

新し目の柳川城跡の碑。

新しい説明板。「柳川城は永禄年中(1558〜1569)蒲池艦盛によって、近世の城郭の基礎となるものが整備され、蒲池氏が滅んだ後に、天正15年(1587)立花宗茂が入城しました。その後、慶長5年(1600)関ヶ原の役に功をたてた岡崎城主田中吉政が、筑後一円の領主として入城すると、天守閣を備えた本格的な近世城郭を築きました。天守閣は約8mの石垣の上に築かれ、5層からなり、高さは約35mであったといわれています。本丸・二の丸の外周には城濠がめぐらされ、現在一部は川下りコースとして利用されています。戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった柳川城は、水の利を生かした名城として知られ、田中氏の断絶後は、元和7年(1621)立花宗茂が再び城主となり、以後、立花氏10万9千石の居城として、明治維新を迎えます。しかし明治5年(1872)1月18日、この天下の名城も失火によって焼失し、石垣も海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は、柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっています。」

土塁。

この石垣は積み直したっぽい。他のもそうかもしれないが。

古写真。

最初っからこの標柱を目印に来ればよかったような。

田中吉政像。




九州の一覧へ