福島城 2009.06.14
所在地: |
新潟県上越市港町二丁目 |
最寄駅: |
JR信越本線直江津駅 |
現存遺構: |
なし |
区 分: |
平城 |
城 主: |
堀氏、松平氏 |
歴 史: |
1607(慶長12) | 堀忠俊が築城、春日山城より移る |
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1610(慶長15) | 忠俊改易、松平忠輝が入封 |
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1614(慶長19) | 忠輝が高田城を築いて移り、福島城は廃城 |
古城小学校の校庭に建つ福島城址の碑。石は石垣に使われていたものという。場所は川に挟まれ港のすぐ近く。これは確かに水害にも遭うだろう。
説明板。「福島城は、慶長十二年(一六〇七)に完成され、同十九年に廃城となった。わずか七年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二代にわたったが、いずれも一国一城の越後大守であった。慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸侯は春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も福島城へ移ったのである。慶長十五年、堀氏が改易となり、徳川家康がわが子、松平忠輝を信州、川中島から移し七十五万石の福島城主とした。しかし、忠輝も四年後、福島城を廃し高田へ新城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川、保倉川が氾濫するからだというまことに短命な城であったが、図によって日本海、関川・保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かつての野面積の石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。」
復元図UP。かなり大規模な城であったようだ。
別の碑。
横から。「慶長五年、堀秀治は上杉遺民一揆を平定した後、この地に築城を開始し、十二年に完成して春日山城を廃した。城の規模は巨大で本丸・二の丸は堀をめぐらし、本丸の土塁には腰巻石を用い、三の丸の外側は関川と保倉川を利用した平城式の大城郭であった。十五年堀氏の改易で松平忠輝が入城し、十九年高田へ城を移したので廃城となった。」
古城小学校。
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