| 所在地: | 滋賀県高島市勝野字郭内 | |
| 最寄駅: | JR湖西線近江高島駅 | |
| 別 名: | 高島城 | |
| 現存遺構: | 天守台、陣屋惣門 | |
| 区 分: | 水城/陣屋 | |
| 城 主: | 織田氏、丹羽氏、加藤氏、生駒氏、京極氏、分部氏 | |
| 歴 史: | 1578(天正6) | 織田信澄が築城 |
| 1582(天正10) | 織田信孝が信澄を殺害、大溝城には丹羽長秀が入る。その後加藤光泰が入城 | |
| 1585(天正13) | 光泰が大垣に加増転封、生駒親正が大名となり入城 | |
| 1586(天正14) | 親正が神戸転封、京極高次に九州攻めの功により大溝城が与えられ大名となる | |
| 1590(天正18) | 高次が小田原攻めの功により近江八幡に移封、無城主に | |
| 1619(元和5) | 分部光信が入封・大溝藩立藩、一国一城令に基づき三の丸を除いて城を破却、陣屋を築く | |
| 1871(明治4) | 廃藩置県の直前に分部光謙が藩知事辞任、廃藩 | |
近江高島駅の東口を出て公立高島病院をぐるっと回る感じで歩くと三の丸跡の標柱。そしてこの右に入る細い道が天守台へと続く道。
標柱の側面。「織田信澄(信長の甥、明智光秀の娘婿)は天正六年(一五七八)二月三日、新生城より大溝城に入城しました。この城は明智光秀の縄張(設計)になるもので、びわ湖や内湖を巧みに利用した水城でした。江戸時代この付近には、藩主の邸や藩の役所が建っていました。」
歩いて行くと荒地の向こうに天守台の石垣が。
UP。
真横から。
天守台前に到着。
大溝城跡の石碑。
説明板。「織田信長が安土に壮大な城を築いた頃、対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。その頃、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(一五七八)二月三日、その跡地を甥の織田信澄に宛行い、大溝城主とした。城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。ところが、天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移築されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(一六一九)、伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引継がれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。この大溝城は平成八年三月、高島町指定文化財となった。」
大溝城周辺平面図。
天守台石垣。
石垣。
石段を登るとごろごろ巨石が転がっている。
天守台上。
天守台上。
逆側の登り口。
天守台の端。
根元。
すぐそこに堀代わりの乙女が池。
天守台の端。
これはやっぱり破城の跡だろうか?
続く石垣。
天守台の先は続櫓台?
真横から。
櫓台の方向から。
櫓台先端部。丸みを帯びているのは改変された跡かな。
この辺はもう崩れている。
乙女が池の端。ウシガエルや巨大なカメがたくさん。
再度斜めから。
乙女が池に架かる木橋は通行止め。以前はこちら(乙女が池側)からも行けたらしい。
アジサイ。
こちらの面は竹に覆われている。
城下町にある大溝陣屋の惣門。現存ということになっているが下の方はサッシはまってるしちょっと遺構とは言い難い。
このへんは昔のままか?
説明板。「元和五年(一六一九)八月、高島郡を中心に二万石の領主として、伊勢国上野(三重県河芸町)から江州大溝(高島町)に入封した分部光信(一五九一〜一六四三)は、さきに織田信澄(信長の甥・明智光秀の女婿)が築いた大溝城(水城)の西に、陣屋・武家屋敷を構築し、背戸川を境として石垣・土塁を巡らせてこの地に総門を設けた。宝暦五年(一七五五)秋、大修理して今にいたる。棟瓦には分部氏の定紋(丸の内に三引)が残り、両袖に部屋のあるこの長屋門は大溝城関係建造物でただ一つ現存する貴重な遺構である。」